プロフィール

はじめまして。

笑顔と幸せの輪が広がるアダルトチルドレン解放カウンセリング『COCORO』の沙織です。

【アダルトチルドレン】

自己肯定感が低く自分に自信が持てない】

【子育てに疲れている】

【いつもモヤモヤした気持ちがある】

【対人関係の悩み】【親子関係の悩み】

【夫婦関係の悩み】等の生きづらさやストレスを抱えていらっしゃる方々へカウンセリングを提供させていただいております。

実は私自身が【アダルトチルドレン】でした

現在、主人、大学4年生長男、大学1年生次男、小学6年生三男、そして義父と同居。

母親としても主婦としても日々奮闘しています。

【言いたいことが言えない】【いつも顔色をうかがってしまう】【NO!が言えず、無理にがんばってしまう】など、幼少期よりずっと生きづらさを抱えながら日々過ごしていました。

心理学に興味を持ち、深く勉強していく中で、私自身がアダルトチルドレンだったんだ!と気付きました。

ここに幼少期から現在に至るまでの生きづらさ、日々の葛藤、そして、どうして克服できたのかを書かせていただきました。

今、このプロフィールをご覧頂いているあなたのお役に立つことができれば幸いです。

是非、ご覧ください。

もくじ

怒られるのが怖く、確認しないと行動できなかった幼少期

悪循環でどんどん内気になっていった小学生時代

先生に対する苦手意識を植え付けられた小学4年生

同級生の世話を任され否定的な感情と葛藤していた小学5・6年生

不登校の同級生を毎朝迎えに行くことを任され、遅刻ギリギリに登校していた中学2年生

私だけを贔屓していると誤解され発展していったいじめ

担任にも同級生にも伝えることができなかった心の叫び

何の取り柄もないことに悩み、もがき葛藤した高校生時代

高校3年生で迎えた転機

教員免許を取得しても越えられなかったトラウマ

院長夫人が現れるだけで一気に現場がピリつく内科小児科医院時代

『お前は犬以下だ!』と怒鳴られた屈辱的な日

いつの間にかスタッフに寄り添い、心のケアをする立場に

辞めてほしくないけど『やめないで!』と言えなかった淋しさと悲しみ

私がこんな職場でも働き続けた理由

結婚、そして同僚の看護師のおかげで分かった妊娠

妊娠直後の緊急入院…そして『命』の尊さを感じた日

退職…そして、いかに心を支配されていたのかを悟った日々

赤ちゃんがいる生活は過酷で試行錯誤の連続

小さな我が子に全身麻酔で手術を受けさせないといけない罪悪感

またしても受けることになった二度目の全身麻酔での手術

今も瞼に焼き付いている手術室で手を伸ばし泣き叫ぶ長男の姿

『何で出来ないの!!』『早くしなさいよ!!』と叫んでは『ごめんね…』と寝顔を見ながら涙した日々

次男も…長男と同じ病気が発覚した日

生きた心地がしなかった緊急手術と主治医に対する怒り

怒りが頂点に達した主治医の言動と声をあげて戦うことの必要性を感じた日

守るべきものがいる母の強さ

三人目の育児で私は母親としての自信を失いました

臨床心理士から育児にレッテルを貼られた日

自分の育児に自身が無くなり思い詰める日々

新たに出会ったカウンセラーさんのおかげで笑顔を、そして自分を取り戻していった日々

再び心理学を学び、資格を取得

教員免許を活かし、子どもたちと関わる日々

最後に…

怒られるのが怖く、確認しないと行動できなかった幼少期

幼少期の私は、しつけに厳しい母親に怒られるのが嫌、怒られるのが怖い…そんな思いから、

いつも怒られない様に確認を取って行動していました。

ご飯も『たべていい?』

と聞いてから食べる。

夜中トイレに行くときでさえも、母親を起こして「トイレに行ってきてもいい?」と聞いてから行っていました。

『行ったらダメ』と一度も言われたこともないのに、それでも聞かないと行ってはダメなんじゃないか…という思いが常にあり、毎回聞いていました。

悪循環でどんどん内気になっていった小学生時代

幼少期の頃に常に思っていた『怒られるのが怖い』『怒られるのが嫌』という気持ちは、

物心がつく頃には、人の顔色をうかがう性格を作り上げていました。

小学生になると、友達が笑っていないだけで『嫌われているのではないか』と勝手に思い込み、落ち込むようになりました。

そして、『謝った方がいいのかな』

『明日どう声をかけよう』と悩み、また落ち込む…

そんな悪循環の中で、自分の気持ちを伝えられず、常に周囲に合わせるようになっていきました。

先生に対する苦手意識を植え付けられた小学4年生

特に小学4年生の時の担任は、敬語を使わないとすぐに怒る厳しい先生で、その影響で話すたびに緊張し、身体が震える事もありました。

授業中に発言することも苦手になり、絶対に注目されたくないという思いから、ますます内気になり、学校に行くことさえ憂鬱になっていきました。

同級生の世話を任され否定的な感情と葛藤していた小学5・6年生

そんな中、小学5・6年生の時には、支援学級の同級生のお世話を担任から任されました。

教室移動の補助や体育時の着替えの手伝いなど、自分の準備もある中での負担は大きく、

本当は嫌で仕方なかったのですが、それを口に出す勇気もありませんでした。

次第に心の余裕がなくなり、その同級生に対しても否定的な感情を抱くようになり、

『そんなふうに思ってはいけない』と自分を責める…また悪循環に陥る日々でした。

葛藤しながらも、必死に頑張り続けました。

不登校の同級生を毎朝迎えに行くことを任され、遅刻ギリギリに登校していた中学2年生        

中学生になるとやんちゃな子も増えたことで、私はますます内気な性格なっていきました。

仲のいい友達はできたものの、クラスではとにかく目立ちたくない。

その一心で、できるだけ口数を減らし、授業中も手を挙げることもなく、静かに過ごしていました。

そんな私に、中学2年生の時新たな役目が与えられました。

不登校の同級生を毎朝家まで迎えに行くよう、担任から頼まれたのです。

しかし、その子の家は登校ルートとは反対方向にあり、私は毎朝いつもより早めに家を出て、遠回りをして迎えに行かなければなりませんでした。

それだけでも負担だったのに、迎えに行っても毎回中々出てこず、玄関先で長く待たされたあげく、ようやくでてきた母親から『今日は休ませるわ』と言われることもしばしば。

そのせいで私は毎朝急いで学校に向かわなければならない焦りで走って登校し、遅刻ギリギリになることが増えました。

出てきて一緒に行く時も学校に行きたくない同級生はゆっくりしか歩いてくれません。

早く早くと急かすと「もう行かない!帰る!』と言って戻ろうとするので、いつも機嫌を損ねないように気をつけながらも焦っていました。

私だけを贔屓していると誤解され発展していったいじめ

担任は事情を知っているので、大目にみてくれました。

しかし、事情を知らないクラスメイトたちは『先生は私だけを贔屓にしてる』と思うようになり、少しずつ私に対する態度が冷たくなっていきました。

私は誤解されていると分かっていながらも、担任に相談する事ができませんでした。

もし話せば、もっと冷たくされるかもしれないと思ったからです。

そう考えると、何も言えなくなってしまったのです。

しかし、やがてそれはあからさまないじめと発展して行きました。

無視をされることが当たり前になり、陰口やからかわれる事は日常茶飯事になりました。

心の中では『どうしてこんなことになったんだろう』と何度も問いかけましたが、答えは見つかりませんでした。

そして、最もショックな出来事が起こりました。

体育の時間に誰かが私のカバンを勝手に開け、持ち込み禁止の雑誌を忍ばせていました。

おそらく私がカバンを開けた瞬間に驚き、取り乱す姿を見たかったのでしょう。

カバンを開けた瞬間、胸が凍りつくような感覚に襲われました。

それでも必死にその場では気丈に振る舞っていましたが、本当にショックで心の中では泣き叫びたいほどの悔しさと悲しさでいっぱいになり、涙をこらえるのが精一杯でした。

その後、『私が雑誌を持ち込んでいた』という噂は他のクラスにも広まりました。

廊下を歩くたびに冷ややかな視線が突き刺さり、ひそひそ話にさらされる日々が続きました。

それでも『そのうちみんな忘れる』『しんどいのは今だけ』と自分に言い聞かせながら耐え続けました。

担任にも同級生にも伝えることができなかった心の叫び

これだけのことをされても、私は担任に相談することはできませんでした。

そして、おそらく担任もこの状況を知っていたはずなのに、何も言葉をかけてくれませんでした。

『私が言わないのだから、それでいい』という無関心な態度が痛いほど伝わってきました。

言いたいけど言えない…

『先生気づいてよ!』『なんで私がこんな目に合わないといけないの!』と悔しさと憤りで、毎日つらいのに、それでも家から出てくるか分からない同級生を迎えに遠回りをする。

一緒に登校する時も顔を見ているだけで『あなたのせいでどれだけ私が被害を被っているのか分かる?』と心の中では叫んでいるけど、頑張って学校に行こうと出てきた同級生を見ると、私が言うことでまた心に傷を負うだろうと思うと本人にも言えませんでした。

結局、私を救ってくれたのは母でした。

母親が担任に『迎えに行くことをやめさせてほしい』と伝えてくれたことで、ようやく毎朝迎えに行くことから解放されました。

しかし、それまでに心に刻まれた傷は簡単に癒えるものではありませんでした。

何の取り柄もないことに悩み、もがき葛藤した高校生時代

私は中学時代の環境を変えたくて、私立の高校に進学しました。

同じ中学校から進学したのは私一人だけでした。

新たな環境に飛び込んで、一から友達を作るところからのスタートでした。

仲の良い友達もできましたが、やんちゃな子が苦手だったことや、先生に対する恐怖心が消えず、必要最低限の会話しかできませんでした。

先生と話す時は心臓がバクバクして、喉が締めつけられるような感覚になり、言葉を絞り出すのが精一杯。

それは、小学校、中学校時代に抱いた先生へのトラウマや苦手意識がずっと抜けなかったからでした。

結局、その苦手意識は高校三年間で克服することはできませんでした。

高校生活では、とにかく目立たず、静かに過ごすことだけを考えていました。

放課後はすぐに家に帰り、友達と遊ぶこともほとんどなく、気づけば学校以外の外の世界がどんどん遠くなっていました。

そんな毎日の中で、ふと心にぽっかり穴が開いたような気持ちになりました。

『私は、いったい何をしているんだろう?』『私の存在価値ってなに?』と思うようになり、ただ学校に行って、授業を受けて、家に帰るだけの毎日。

何の取り柄もない自分が情けなくて虚しくて、どうしようもない不安に押しつぶされそうになりました。

高校3年生で迎えた転機

そんな私にとって、高校3年生で迎えた進路は大きな転機でした。

『このまま何もない自分のままでいいの?』と自問自答する中で

『子どもが好き』『何か資格を取りたい』という気持ちが芽生え、教員免許を取得したいと思うようになりました。

附属の大学への進路を考えていましたが、それまでとにかく大人しく過ごすことしか考えず、勉強にも力を入れてこなかった私には決して簡単な道ではありませんでした。

『今の成績では厳しいと』と言われたとき、

悔しさと後悔が一気に押し寄せてきました。

『なんでもっと早くに頑張らなかったんだろう…』

『このまま諦めたら、また何もない自分に戻ってしまう…』

そう思ったとき、初めて本気で努力したいと思いました。

何か一つでも自分に誇れるものを作りたい。

そう決意して必死に頑張りました。

教員免許を取得しても越えられなかったトラウマ

大学で主に児童教育、心理学を学び、将来は子どもに関わる仕事がしたいと願っていました。

けれど、私にはどうしても越えられない壁がありました。

それは、ずっと抱えてきた教師に対するトラウマ

教員免許を取得しても自分があの立場になることを想像するだけで、心がざわつく。

本当に子供たちの前に立てるのだろうか?

私が教師になっても、大丈夫なんだろうか?

教師という職業は、私にとってあまりにもハードルが高すぎるものに思えました。

なので、私はちがう形で子どもたと関わる道を探すことにしたのです。

院長夫人が現れるだけで一気に現場がピリつく内科小児科医院時代

卒業後、私は小学校ではなく内科小児科医院で働くことになり、『子供たちの役に立てるかもしれない』と胸を弾ませて働き始めました。

子供たちと話し、笑顔を見るたび、『ああ、やっぱりこの道を選んで良かった』と思える瞬間もたくさんありました。

でも、その職場には、目に見えない圧が常に漂っていました。

忙しい時間になると、院長夫人が現れ、職場の空気が一変するのです。

ピリッと張り詰めた空気。

誰もが顔をこわばらせます。

『…来た』

職員の間に、目配せとともに走る緊張。

何かミスをすれば、それがどんな些細なことでも、そして患者さんが目の前にいても、機嫌の悪い時には怒号が飛ぶ飛びます。患者さんにどう思われるのかなんてお構いなしです。

よく患者さんとも衝突して怒らせることもしばしばで、患者さんへのフォローに回る事もしょっちゅうでした。

そんな院長夫人ですから、周囲は『なるべく関わらないように』と身を縮めるばかりでした。

院長も状況を把握しているにもかかわらず、ただそれを見ているだけで見て見ぬふりでした。

『どうして何も言わないの…』

日に日に、職場に向かう足が重たくなっていきました。

朝の通勤中、何度も『行きたくない』と心の中で呟く自分がいました。

胃は常にきゅっと痛み、仕事が終わるとぐったりと力が抜ける、そんな日々を送っていました。

『お前は犬以下だ!』と怒鳴られた屈辱的な日

ある日、夜診が暇でする事がないと分かっていたので、干していたタオルを取り込み『夜診の時にたたもう』と一旦置いて、休憩に入りました。

すると、突然名前を呼ばれ、院長と院長夫人の前に立たされました。

『これ、どういうこと!?』

開口一番、怒鳴られました。

私は驚きながらも事情を説明しました。

『夜診でたたもうと思って…すみません、すぐにたたみます』

そういった瞬間でした。院長の顔が険しくなり、怒りの声が響きました。

『お前は犬以下だ!!』

『犬でも、口答えせず忠実にご主人の言うことを聞くぞ!!』

一瞬、何が起きたのか分かりませんでした。

『………え?』

耳が真っ赤になり、心臓がバクバクと鳴り始めました。

『本当にそうよ!』と横から院長夫人が言葉を重ねてきました。

なんで…そんなことを平気で言えるの…

頭が真っ白になりながらも、『こんなこと、言われていいの?』という気持ちと、『言い返したら、もっとひどい事になるかも』という恐怖が入り混じり、何も言えませんでした。

私が説明したことが、口答えしたと捉えたのでしょう。

悔しくて、情けなくて、その場で泣きそうになるのを必死でこらえました。

そこから、院長夫人の私に対する態度が明らかに変わりました。

言葉の一つ一つにとげがある。

いつも睨むように…。

『この職場でやっていくには、強くならなきゃいけない。優しいままじゃ、潰される…強気にならないと、自分を守れない…!』と思うようになりました。

冷たい嫌な性格にならないと自分を守れない…

でも、本当はそんな自分になりたくなかったんです。

そして私はもう一つの悩みを抱えていました。

この医院は家からそう遠くない場所にありました。

だから、もしかしたら将来、両親が患者としてお世話になることがあるかもしれない。

そう思うと、『感情的に飛び出すような辞め方はできない』と思っていました。

『辞めるなら、ちゃんと…円満に辞めないと…』

そして、何度も何度も『もう…辞めたい!』と思いましたが『次、辞めたいと思ったら辞めよう…』とその都度思いながら、何とか持ちこたえて仕事を続けました。

いつの間にかスタッフに寄り添い、心のケアをする立場に

頑張って仕事を続けてきた私は、いつの間にかこの職場で『ベテラン』と呼ばれるようになっていました。

あんなに悩んで、涙を流しながら通っていた場所で。

新しく入ってくるスタッフも増えてきました。

まだ右も左も分からない不安そうな顔で、かつての私のように、目をキョロキョロさせながらも、懸命に仕事を覚えようとする姿がそこにありました。

けれど、そんな彼女たちにも、例外なく『あの瞬間』は訪れます。

院長夫人の、突然の雷のような怒号。

機嫌の悪い日は特に、些細な事で怒鳴られる。

『何であんな言い方をされないといけないんですか…』と休憩室で涙を流しながらポツリと漏らす新人の子たちの話をひたすら聴きました。

泣きながらでも、ぽつぽつと本音を話し始めると、最後には少し笑ってくれる。

辞めてほしくないけど『やめないで!』と言えなかった淋しさと悲しみ

沙織さんに話して、ちょっとスッキリしました。』そう言って、次の日からまた頑張る子もいれば、『…もう無理かもしれません』と、翌週には辞めていく子もいました。

本当は辞めてほしくない…でも、辞める彼女たちに『やめないで!』と強く言えませんでした。

この環境のつらさを、私は十分に知っているから。

だけど、内心はせっかく仲良くなれたのに…との思いと、悲しい顔をしながら辞めていくスタッフを見送る切なさ、その度に沸き起こる院長夫人に対する苛立ちで、言いようのない悲しみに襲われていました。

見送った後、ひとりになって、私は何度も思いました。

『どうして、この人(院長婦人)のために、いい人たちが辞めていかないといけないの?』

『何も悪くないあの子たちが、なんで泣かされなきゃいけないの?』

悔しさ、無力感、やり場のない怒り。

そしてそれでも何も変わらない現状に深い悲しみが心に積もっていきました。

私がこんな職場でも働き続けた理由

それでも私がここに居続けた理由。

それは、『自分があのとき、誰かに救われたかった』からかもしれません。

『ここに話を聴いてくれる誰かがいる』

『自分の気持ちを分かってくれる人がいる』

そう思えるだけで、きっと人は少し強くなれる。

だから残念ながら辞めていくスタッフもいるけれど、私と話をして思いとどまり、また頑張っていこうと決心してくれたスタッフのために、私はここで働き続けました。

私は、いつの間にか昔のような弱い自分ではなく、時には院長夫人にも意見出来るくらいの心の強さも持ち合わせるようになりました。

そして、泣いているスタッフに寄り添い続けました。

一緒に働いているスタッフは本当にいい人たちばかり。

だから誰も理不尽なことで、やめてほしくない。

その思いだけで、この職場に居続けました。

結婚、そして同僚の看護師のおかげで分かった妊娠

この職場で働いている間に、私は結婚をしました。

そして新たな命を授かりました。

でも、そのことに気付かないまま、日々の忙しさに追われていました。

ある日、仕事に遅れそうで、小走りした時にお腹に軽い痛みがありました。

またある日は、お風呂で湯船から立ち上がった時に『ん…?やっぱりなんかお腹が痛いかも…』

軽い違和感がありました。

けれど、その時は大したことだとは思わず、それを何気なく職場の看護師に話しました。

『なんか最近、ちょっと下腹部がチクッとすることがあって…』

すると顔色を変えた看護師が言いました。

『それ…妊娠しているんじゃない?』

『すぐに産婦人科に行ったほうがいいよ!痛いのはおかしいから!』

慌てたように言うその真剣な表情に、急に不安が押し寄せました。

妊娠直後の緊急入院…そして『命』の尊さを感じた日

次の日お休みをもらって、すぐに産婦人科に行った私は、思ってもいなかった言葉を先生から受けました。

『今すぐに入院してください。』

『え…』

耳に入ってきた言葉の意味がすぐには理解できませんでした。

『何で…⁇』

産婦人科の先生は優しく丁寧に、しかし真剣な眼差しで説明してくださいました。

『おめでとう!妊娠しています。』

『だけど、今、お母さんの身体は、赤ちゃんを『異物』だと認識して、外に追い出そうとしています。』

この言葉を受けても、まだ事の重みが私には伝わっていませんでした。

そして、『僕はこの子の命を精一杯守りたい。だけど、今はこの子の生命力にかかっています。』と言われました。

途中で電話をして病院まで急いで来てくれた母の顔を見た途端、説明しようとしても、急に先生から言われた『お母さん』という響き、『命』に対する重み、そして、小さな命を守れないかもしれないという恐怖心、いきなり入院という思ってもいない状況…いろいろな感情で涙があふれてきて、話すことができませんでした。

先生が『僕が説明するから大丈夫だよ!』とおしゃってくださり、母は静かに聞いていました。

その間、どんどんまだ見えない、何も感じないお腹に宿った命の尊さを、初めて『我が子』として実感し始めたと同時に、『この子を守りたい。生きて、私のところに来てほしい…』

そう強く心から思った瞬間でした。

退職…そして、いかに心を支配されていたのかを悟った日々

そして、すぐに入院生活に入り、職場にも電話で状況を説明しました。

院長夫人もびっくりして、『無理しないでね』と身体の心配をしてくれました。

しかし、何日か経ってから院長婦人から電話があり、『退院しても安静が続くなら、退職したほうがこちらのことを気にしなくてもすむから、そのほうがいいんじゃないかしら』と言われました。

言葉を選ぶようなその言い方の奥に、私は、ハッキリとした本音を感じてしまいました。

『…ああ、早く辞めさせて他の人をいれたいんだな』

でもその通りだったのかもしれません。

私自身も、退院してもすぐには復帰出来るとは思えませんでした。

だから私は、お話を受け入れて、入院したまま一度も病院に顔を出すことなく、退職することになりました。

スタッフのみんな、そして患者さんに、直接目を見てお別れの挨拶ができなかった事に対しての心残りで、いろんな感情になりました。

『ありがとうって、ちゃんと一人一人に伝えたかったな…』

手続き等のことで、何度か院長夫人から連絡があり、その際に私の状況をスタッフのみんなに伝えてくださったこと、また、みんなも驚いて凄く心配してくれていることを聞きました。

あんなに嫌な職場だったのに、スタッフ、患者さんの顔を思い出すと急に淋しさが押し寄せて、泣きそうになる瞬間が何度もありました。

とは言え、その後も2年間くらいは、院長夫人が来た時のピりついた緊張感の中で働いている夢を見ては、うなされていました。

うなされるたびに、いかに心を支配されていたのかを感じました。

心はそう簡単に自由にはならなかったのです。

出産まで、ほぼ安静の生活でしたが、長男は奇跡的に無事に生まれてきてくれました。

赤ちゃんがいる生活は過酷で試行錯誤の連続

出産後、保育器に入っている期間があり、その間は『退院した後の赤ちゃんとの生活って、きっと幸せで穏やかなものなんだろうな』そう思っていました。

でも、現実は想像以上に過酷で、毎日が試行錯誤の連続でした。

『どうして泣いているの…?』

ミルクをあげても、オムツを替えても、抱っこをしても泣き止まない。

特に夜中はつらくて、1時間おきに泣き出す我が子を抱きながら、何度も心が折れそうになりました。

買い物に行くだけでも、『先にミルクをあげとかないと、途中で泣くかもしれない。』『オムツを替えてから行かないと。』

それだけでも、思ったように動けません。

また外出していて大きな声で泣いていると、明らかに不機嫌にこちらを見てくる人もいます。

日々の寝不足と公共の場に連れていく不安、うまく時間を使えないもどかしさで、心が折れそうになる日もたくさんありました。

それでも、小さな命が私の腕の中にいる…その重みだけで『頑張らなきゃ』と思えました。

小さな我が子に全身麻酔で手術を受けさせないといけない罪悪感

そんな日々を過ごしていた、息子が7カ月の頃、毎月受けていた検診で医師にこう言われました。 

『お子さん、鼠径ヘルニアになっています。全身麻酔で手術しないといけません。』

『〇〇病院に紹介状を書きますので、これをもって行ってください。』

頭が真っ白になりました。

『えっ…手術ですか?全身麻酔で?』

こんな小さな体に…まだ何も分からないような、あどけない笑顔の息子に、麻酔をかけて手術を受けさせなければならない。

そのままにしておくと、時に、命にかかわる事もあるとのこと。

『絶対に受けないといけない手術なんだ』と分かっていても、私は申し訳なさと不安で胸が押しつぶされそうになり、かなり葛藤しました。

またしても受けることになった二度目の全身麻酔での手術

幸い手術は無事に成功し、1週間程で退院し、やっと不安も解消されたと、ほっとしたのも束の間。

今度は幼稚園年少の頃、息子は『扁桃腺肥大とアデノイド』と診断されました。

夜、眠ると途端に舌が喉に落ち込んで、呼吸出来なくなるので、その度に体を横に向かせて呼吸しやすくしていました。

毎日、夜が来て、眠りだした長男を見つめる度に『ああ…またこの子には苦しい、つらい夜がきてしまった。』と胸が締め付けられる思いになっていました。

そして私も常に息子の様子を見ないといけないので、夜中もほとんど熟睡はできませんでした。

『扁桃腺肥大、アデノイド』と診断後、また全身麻酔で手術することに対して、かなり悩みました。

二度も全身麻酔をかけて手術をしないといけないことへの申し訳なさと罪悪感に胸が押しつぶされそうになりましたが、手術を受けることで息子が夜中も熟睡できるようになるのであれば…との思いで手術を受けさせることにしました。

今も瞼に焼き付いている手術室で手を伸ばし泣き叫ぶ長男の姿

手術当日、看護師さんに『お母さん、一緒に手術室までお願いします。』と言われ、まだ何をされるのかを知らない、機嫌のいい息子の手を握って一緒に歩いて手術室まで入りました。

手術着を着て、マスクを付けた医師たちを見て怖がるかな…と思いながら手術室に入りましたが、息子は怖がらず笑顔でした。

『ここに上がってくれる?』と手術台に上がるように促されても『はーい!』と言って飛び乗る様に何の迷いもなく上がりました。

しかし、ほっとしたのも束の間。

飛び乗った瞬間、いきなら手術着を着た大人たちに囲まれ、羽交い絞めにされた息子はパニックを起こしました。

『ママ――!ママーーー!』と必死に手を伸ばして泣き叫ぶ息子。

でも、私は、何もしてあげられない。

麻酔のマスクを付けられた段階で、私は外に出るように促されました。

手術室を出た瞬間、私は『ごめんね…ごめんね……』と声を押し殺して泣きました。

手術は無事に終わりました。

その夜は昨日までとは全く違う、穏やかでしっかり呼吸をしながら寝ている息子の姿がありました。

病室で添い寝をしながら、幸せそうに寝ている息子の寝顔を見ていると涙があふれてきて、手術をして良かったと思う反面、あの『ママーー!ママーーー!』と叫んだ瞬間はどれほどの恐怖だったのだろうか…と思うと胸が締め付けられました。

今でも、マスクを付けられ、必死に手を伸ばして泣き叫ぶ長男の姿が、鮮明に瞼に焼き付いて、思い出すと胸が苦しくなる瞬間があります。

『何で出来ないの!!』『早くしなさいよ!!』と叫んでは『ごめんね…』と寝顔を見ながら涙した日々

長男が3歳の時に次男が誕生しました。

今まで長男には目一杯愛情を注ぎ、大事に大事に育ててきました。

『これからは兄弟二人を、大切に、愛おしく育てていこう』と心に誓っていました。

けれども現実は想像以上に大変で、0歳児の次男を抱えて長男を幼稚園に連れて行く毎日。

買い物や家事に仕事…。

時間が足りない。

やるべきことに追われて、心の余裕なんて、どこにもなくなっていきました。

うまく時間を使えない事、自分の時間が全く取れないことでストレスがたまり続け、ついつい3歳の長男に「なんで出来ないの!!」「早くしなさいよ!!」と𠮟りつけるようになり、夜、寝顔を見ては「また言ってしまった」と涙を流す日々を送るようになっていきました。

まだ3歳。

できないのは当たり前。

だって、私はまだ色々なことを教えていないのだから。

重々分かっている。

教えてこなかった自分が悪い。

分かっているのに…気づいているのに…止められない。

そして夜になると、長男のあどけない寝顔を見ては涙がこぼれて胸が苦しくなる。

そんな自分に嫌気がさし、落ち込む日々を送っていました。

その当時は心も体もボロボロでした。

だけど、こんこと誰にも相談できない、相談するものではないと思っていました。

それは、私が母親だから。

私がしっかりしなくちゃいけない!自分の子どもなんだから、誰かに助けを求める事は悪いこと!と思い必死葛藤していました。

この時にカウンセリングを受けてもいいと知っていたら、どう変わっていたかな…

子供の心を傷つけることもなかったのかな…と思います。

次男も…長男と同じ病気が発覚した日

葛藤しながら毎日を送っていたある日。

次男の生後3ヶ月検診の前日、オムツを替えていたその瞬間ーー

『…あれ?』

手がピタッと止まりました。

見覚えのある、あの違和感。

『この感じ…長男の時と一緒…!』

身体に緊張が走り、嫌な予感が頭をよぎりました。

『もしかして、この子も鼠径ヘルニア…?』

翌日の検診で、先生に思い切って伝えました。

『先生…ここ、なんか…おかしい気がして…この子も、もしかして…鼠径ヘルニアですか?』

先生は少し驚いたように、でもすぐに頷きました。

『よく気付いたね!これくらい小さい間は分かりづらいんだけど…鼠径ヘルニアだね。』

やっぱり…。直感が的中してしまった…。

『また、あの手術の日々が始まるのか…』と胸がぎゅっと締め付けられました。

そこから、大学病院への通院が始まりました。

私は初診で先生に強くお願いしました。

『先生…できるだけ早く手術していただけませんか?前に上の子も7カ月で手術していて、心配で…』

でも、主治医は首を横に振るばかり。

『僕は1歳になるまでは手術しません。』

その根拠も分からず、1歳までずっとこの病気を気にしながら生活していくという不安の中、毎日を過ごしていました。

また、その先生の態度もどこか冷たく、心が通じていないようで、信頼できずにいました。

生きた心地がしなかった緊急手術と主治医に対する怒り

そして、生後5ヶ月になった次男に大変な事が起こりました。

夜11時過ぎに息子が尋常ではない泣き方をしていると思った矢先、ぴたっと急に泣きやみました。

『…ん?どうしたんだろう…?』と急いで抱きかかえると、息子はおおきな目をキヨロキョロさせていて表情がおかしい…そのうち、みるみる顔が白くなっていき、唇は紫色になっていきました。

『えっ…!絶対おかしい…

すぐに主人に救急車を呼んでもらい、長男を見てもらうために両親に来てもらうよう電話をしました。

急な息子の容態の変化に震えが止まりませんでした。

救急車に乗って病院に向かっている間も、『息子に何かあったらどうしよう…』と不安でいっぱいになり、生きた心地がしませんでした。

病院に着くと、そのまま緊急入院、夜中2時半から緊急手術。

執刀してくださった先生は、いつもの主治医ではありませんでした。

そして、その先生が手術後に丁寧に説明をしてくれました。

そして話の最後に、『お母さん、本当に怖かったですよね。でも大丈夫、無事に終わりましたからね。』とおっしゃってくださいました。

その優しい声に、心が少しずつほどけていくの感じました。

ただ、説明の中で、『もう少し遅かったら、腸が壊死するところでした。そうしたら、壊死した部分を切除しないといけなかったので、大きな手術になるところでした。すぐに救急車を呼んだのは正解でしたよ。』と言われました。

その瞬間、主治医に対する怒りと、『だから早くに手術して欲しい…と言ったのに』という腹立たしさから、私は涙をこらえながら執刀して頂いた先生に思い切って言いました。

『今までの先生には…もう戻りたくありません。先生に今後も担当をお願いできないでしょうか?』

その先生は最初『それは、難しい…』とおっしゃいましたが、私の必死さが伝わり入院中のみ主治医になって下さいました。

その間だけでも、信頼した先生に子どもを診て頂けることが、どれほど心強いことだったかわかりません。

息子は術後、順調に回復し、無事に一週間程で退院することができました。

怒りが頂点に達した主治医の言動と声をあげて戦うことの必要性を感じた日

退院後の診察、抜糸は元の主治医がみることになりました。

嫌々だけれど、『これで最後だ!』との思いで診察室に入ると、3人ほど実習生がいました。

主治医は私に許可なく、実習生に『これを見るのは初めてだろ?よく観察するように…』といいました。

その瞬間、実習生たちが息子を囲み、真上から覗き込んでメモを取りはじめました。

私は、びっくりしました。

それだけでも主治医のデリカシーにかける言動、全く許可も取らず当たり前に実習生たちに見せる行動に腹が立っていましたが、次に発した主治医の発言で怒りが頂点に達し、とうとう私は主治医に一言いいました。

それは、主治医が『腸が穴に詰まったから緊急手術になって、そのせいでちょっと傷も大きくなってしまったけど、まあ無事に済んで良かったです。』と言ったんです。

その無神経な言葉にあまりにも腹が立った私は『だから早くに手術をしてほしいとお願いしたじゃないですか!ちょっと傷が大きくなったけど…とか簡単に言わないでください!』

『もう少し遅かったら大手術になるところだったと言われたんですよ!それと、実習生に見せる事も大事かもしれませんが、まずはこちらに許可を取るべきではないですか?』

『またお世話になることがあっても、先生にだけはお世話になりたくないです』と言って泣きそうになりながら診察室を出ました。

そして、我慢ばかりせず、我が子を守るためには時に声をあげて戦うことも必要なのだと感じました。

守るべきものがいる母の強さ

この時私は、もっと強く何度も『早く手術をしてほしい!』と言っていれば、こんな傷も大きくなることもなかったのかな…こんな緊急手術を受ける事もなかったのかな…と、息子に申し訳ない気持ちになりました。

医師に対しての遠慮、我慢…子どもよりもその気持ちを優先してしまった後悔。

医師の『1歳までは手術しない』という根拠を嫌な顔をされようとも、納得いくまで聞けばよかったという後悔。

この時、『私がこの子を守らないで誰が守るの!』と強く思いました。

この時から、私はもう、昔の頃のようにただ我慢するだけではなく、ちゃんと自分の意見を伝える努力をしようと思いました。

三人目の育児で私は母親としての自信を失いました

長男が10歳、次男が7歳になったころ、私は三男を授かりました。

三男は長男、次男よりも歩くのも遅く、しゃべり出しも遅く、他の年齢の子よりも成長がゆっくりでした。

小児科で相談したこともありました。

三男に少しでも刺激があればと、色々なところに連れて行ったり、知育玩具で遊ばせたり、時間の取れる限り一緒になって遊びました。

2歳半になり、市の検診に行った際、帰り際に保健師さんから『今、臨床心理士の先生が空いてるので、少し寄ってみませんか?』と言われました。

成長がゆっくりな三男のために育児のヒントがもらえるかもしれないと、軽い気持ちで行きました。

でも、そこから私の心は、深く深く傷ついていきました。

臨床心理士から育児にレッテルを貼られた日

臨床心理士の先生は60代くらいの女性でした。

指にはジャラジャラといくつもの指輪。

子どもと接するのに香水の匂いもきつい。

その時点で違和感しかなく、ちょっと苦手な感じの人だなと直感で感じました。

でも…それでも、この子を育てていくヒントになればと思い、席に座りました。

なのに…

座ると同時に、子どもとファーストタッチとして安心感を与えるようなコミュニケーションを取る事もせず、いきなり『はい!これやってみて!』と中学生の子に話すくらいの普通のスピードのしゃべり方で、淡々と進めていきました。

考えて手止まっていると『出来ないね!じゃあ、次のこれやって!』と奪い取る様に下げて、次を出す。

何とも言えない威圧感。

『一緒に手をつないで歩いてみて!』と言われ、歩くと息子はすぐてを離したがる。

それを見て『いつも繋ぎたがらないの?』と言われ、『いつもではないですけど、一人で歩きたがる年齢ですし…』と答えても、冷たくあしらう。

サイコロを5個積む様に言われた時も、その時はしなくて…

その後すぐ、私と臨床心理士が話しているときに10個積み上げました。

だけど、一切積み上げた事を褒める事も無く、『言われたときにしなかったからだめ!』

円を書くように言われても『すぐに書き出さなかったからだめ!』

鉛筆の持ち方も上手で、ちゃんと線の始まりにぴったと合わせて円を書けていたのに、褒める言葉は一つも無くて、ただただ『だめ!』『出来ていない!』の一点張り。

挙句の果てには、遊んでいるところを書いてみて!と言われ、絵を描いている息子に向かって、『体は?体はどこにあるの!』

そう言って、腕を掴んでゆすったんです。

もう言葉が出ませんでした。

そして私に向かって、こう言いました。

『お母さん、この子が絵を描いて遊んでいる時は何をしているの?』

私が『家事や家の事をしている事が多いです。』と答えました。

そうすると、帰ってきた言葉は『だからダメなのよ。子どもをほったらかしにしているから!』でした。

自分の育児に自身が無くなり思い詰める日々

ほったらかし!?

あまりにも衝撃的でつらい言葉でした。

子どものことをほったらかしになんてしたことは一度たりともない!

こんなにも愛情をかけて育てている。

でも、この人には愛情もかけず、ほったらかしにしている親に見えているんだ…と思うと、とても悲しくなりました。

『放ってなんかいません!!家事の間、安全に遊んでもらうために絵を描いたり、おもちゃで遊ばせたりしているんです。』

『その間も目を離したりもしていません。』

『子どもが遊んでいる間はずっと横に座っていないといけないという事なんですか?』

『いつ家事をして、いつ食事を作ればいいんですか!』と必死に伝えました。

でも帰ってきたのは、冷たく、威圧的な一言。

『私は今まで1000人の子どもを見てきたんです!』

正直『だから何⁉』

『一瞬あっただけのこの子の何が分かるの⁉』と思いました。

『そこまで言われなきゃいけないの?』

『私の子育てってそこまでダメなの?』

『遊んでいる間、ずっと隣りにいないといけないの?』

それ以来、私は、自分に自身が持てなくなりました。

男の子3人育ててきたけど、今までの育て方は全部間違っていたのかもしれない…とまで思い詰めるようになりました。

毎日、毎日、頭の中をぐるぐる回る疑問と自己否定。

息が苦しくなって、涙がこみあげてきては、『ごめんね、ごめんね…』と申し訳ない気持ちになっていました。

私は、母親としての誇りも、自信もすべて失いかけていました。

新たに出会ったカウンセラーさんのおかげで笑顔を、そして自分を取り戻していった日々

数日後、保健師さんから一本の電話がありました。

『次のカウンセリング、いつにしますか?』

…えっ?

予約した覚えなんてない‼

次も受けるなんて言った記憶もない‼

驚いて答えました。

『えっ…次もお願いするなんて一言も言っていません。』

その時、あの日あったことをすべて伝えました。

どれだけ辛かったか、どんな風に傷ついたか。

保健師さんは黙って、真剣に私の話を聴き、深く謝ってくれました。

それだけで、少し心が救われる気がしました。

それから保健師さんが気に掛けてくれて、何度かご連絡をしてくださるようになりました。

そして、ある日、こう言ってくださいました。

『沙織さんに合うと思うカウンセラーさんがいるの。一度会ってみない?』

…正直、怖かった。

また否定されたら?

また落ち込んだらどうしよう?

でも、あの保健師さんが言うなら…と、思い切って会ってみることにしました。

そして出会ったカウンセラーさんは私の心配をすっと緩めてくれる方でした。

目を見て、うなずいて、『うん、それで?』と優しく促してくれる。

私の話を、最後まで遮らず、真剣に、丁寧に聞いてくれました。

話しているうちに、心がふっと軽くなるのがわかりました。

『ああ、これが心が解放されるってことなんだ』

その感覚が私を救ってくれました。

何度か通ううちに、私は、少しずつ自分を取り戻していきました。

笑顔が戻り、子どもにも主人にも、泣き顔を見せることなく、優しく穏やかに向き合えるようになっていきました。

再び心理学を学び、資格を取得

そして、少しずつ子育ても落ち着いてきたころーーー

ふと、自分のこれまでを振り返る時間が増えていきました。

『私には何ができるだろう…』

『大学で学んだ児童教育と心理学を、今こそ活かせないだろうか?』

そう思った時、勇気を振り絞って会いに行ったカウンセラーさんの事を思い出しました。

『あの日の私』のような誰かの力になりたい…

そんな想いが芽生え、再び心理学の勉強を始めました。

『この知識で、誰かの心を軽くする助けになれたら…』

そう願いながら、学びを深めました。

そして、『メンタル心理カウンセラー』、さらには『上級心理カウンセラー』の資格を取得しました。

自分の中で、新たな扉が開かれた瞬間でした。

教員免許を活かし、子どもたちと関わる日々

資格取得と同時に、私は教員免許を活かし、放課後児童クラブで働き始めました。

子どもたちと関わる日々の中で、一人ひとりの『心の声』に耳を傾けるようにしています。

『先生、今日ね…』『先生、ちょっと聞いて!…』

小さな声にもしっかり耳を澄まし、『あなたの気持ち、大事にしてるよ』

そんな想いを伝えながら、そばに寄り添っています。

そして、心理カウンセラーとしても日々さまざまななやみを抱えた方と向き合っています。

クライアントさんに、私は『大丈夫。あなたは一人じゃない。』『あなたの話を聴くために私がいてるんですよ。』とそっと声をかけています。

私が歩んできた道のりすべてが、今この場所に繋がっている。

母としての喜びや不安、働く中で感じた苦しさや悔しさ、そして、たくさんの人との出会いと別れ。

それらすべてが、私を『今』の私にしてくれました。

最後に…

今、私が行っているカウンセリングには、あの時感じた『心が解放されていく感覚』が根っこにあります。

誰にも分かってもらえない孤独。

『これでいいのかな』と揺らぐ子育ての自信。

頑張っているのに、責められてばかりのような感覚。

でも、そのカウンセラーさんと出会って『ただ話を聞いてもらうだけで、涙があふれる』そんな経験をしました。

気づけば、胸の奥にあった重たい感じが少しずつほどけていき、『ああ、私は、ずっと頑張ってたんだ』とやっと自分を認められた気がしました。

評価されず、安心できる場所。

心の中を思うままに言葉にできる場所。

自分を癒す時間。

自分を信じてもう一度歩き出す力を取り戻す時間。

私は今、これらすべての視点を大切にしています。

自分自身が『苦しみ』や『迷い』を通ってきたからこそ、心から寄り添えるカウンセリングをしたい。

そして、あなたを通して、あなたの周りにいらっしゃるご家族も笑顔にしていきたい…。

『誰にも言えない想い』

『どこにも吐き出せない苦しさ』そんな気持ちを抱えた方に、安心して心を開いてもらえるように。

そして、母として、一人の女性として、もう一度自分自身を取り戻すための時間を取り戻せるように、私はお一人お一人と丁寧に向き合い、『あなたの心に寄り添い続けるカウンセラー』でありたいと願っています。

もし今あなたが…

『このままでいいのかな?』

『なんとなくしんどい』

そんな気持ちを抱えているのなら、一度、心の中を言葉にしてみませんか?

最後までお読みいただき、ありがとうございました。